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待宵小侍従の碑

  待宵小侍従は石清水八幡宮別当光清を父に持ち、一族に宮廷歌人の多い環境に育った彼女は生来の才気も手伝って、歌人としても注目を浴びます。平安時代も終わりごろ、 太政大臣藤原伊通の子伊実(これざね)に嫁いだが、三十九歳のころ夫と死別、二条天皇、皇后藤原多子や高倉天皇に仕え、華やかな宮廷歌壇で活躍、多情な恋愛遍歴を重ねました。 恋人が来るのを待つ「待つ宵」と「後朝(きぬぎぬ)の別れ」とどちらが趣が深いかと問われ、
 「待つ宵にふけゆく鐘の声きけば あかぬわかれのとりはものかは」
と、恋人を待ちわびる胸の苦しさを詠んだものとされる彼女の名歌は、新古今集や平家物語にあります。
  六十近くで出家、男山の中谷に庵を結んだとか、桜井の里で余生を送ったとか言われています。待宵小侍従の墓と伝えられる五輪塔と慶安三年(1650)高槻城主  永井直清によって建立された碑のある場所は「苔山」とか「待宵の丘」と呼ばれていました。昔は名神高速道路の真ん中辺りにあって、大きな松に覆われていたそうですが、その拡幅により、現在地に移されました。
 
  宝積寺にある室町時代鋳造の鐘は 前述の歌に因み「待宵の鐘」と呼ばれています。

所在地 大阪府三島郡島本町桜井三丁目