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観音寺(山崎聖天)

観音寺本堂 寺伝
 真言宗の単立寺院で妙音山観音寺、通称山崎聖天と呼ばれるお寺です。寺伝によると、寛平法皇(宇多天皇)が昌泰二年(899)に開創され、江戸時代の初めに箕面勝尾寺の木食以空上人が再建しました。このとき、昔からこの地にあった聖徳太子の作と伝えられる十一面千手観世音菩薩を本尊とし、観音寺と名づけ、山号は地中から現れた薬師如来の石像に「妙音山寛平法皇剏建地(そうけんち)」と彫ってあったことによります。
 歓喜天
 上人は、鎮守に勝尾寺で供養されていた歓喜天(聖天さん)を祀られました。この仏さまを一心に信心すれば名声を上げること、技芸の上達、地位の上達、富栄えること、夫婦和合、娯楽の満足、除病延命福徳の成就、怨念の退散など、現世利益で叶わないものはないと言われています。さらに死ぬと必ず極楽浄土へいけるそうなので、尾張徳川家、仙台伊達家、高崎松平家、備中板倉家、宇和島伊達家など諸侯の信仰を集めといいます。また、住友、鴻池、三井の各富豪も家運の隆盛を祈りました。
 境内の梵鐘は五代将軍綱吉の生母桂昌院から、また銅製の大灯籠は江戸時代中頃に住友家から寄進されました。このような有力な信者を持った観音寺は富裕町人にも人気があり山崎の聖天さんとして、近隣はもとより大阪一帯からも親しまれてきました。
 なお、歓喜天は秘仏であり、毎日住職が浴油供ならびに華水供の供養を行い、蘿(らぶ=インドの大根)、酒(しゅ)、団(だん=清浄歓喜団、奈良時代遣唐使により伝えられた唐菓子)をお供えしています。(右図は歓喜天像の一例)
                                  
 観音寺日譜
 「観音寺日譜(にっぷ)と呼ばれる有名な日記があります。延享三年(1746)から明治二十三年(1890)までの約150年にわたる日記で、観音寺のことのみならず、大山崎地方で起きたいろいろな出来事が記録されており、当時の状況や生活を知ることができる貴重な資料と言われています。
 例えば、幕末に起きた禁門の変では「山崎八幡宮に大炮を打ち込んだ音に驚いて本堂の御本尊を堂前の池に打ち込んで退居」したとか「天王道から大炮を打たれて、屋根瓦が少々落ちた」などの記録があります。

 行事(お花祭り)
 4月初旬の日曜日、行列が散華をしながら聖天堂を1周したのち、堂上の役僧に供物を稚児が交代で渡し、その後鐘楼の前に設けられた舞台で鳥の衣装を着けた稚児が童舞を奉納する上品で優雅な行事です。

 
所在地 〒618−0071 京都府乙訓郡大山崎町白味才62
電話/FAX 075−956−0016/075−951−1748
行事
(ふるさと歳時記参照)

・毎月1日・16日:天尊ご縁日
 1/16福ぜんざい接待
 2/16厳冬謝恩祈願会としてかす汁接待
 8/16氷接待
 11/16:謝恩大浴油供(大根焚き接待)
・4/初旬(日曜):お花祭り
・12/31:除夜の鐘