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山崎宗鑑句碑と霊泉連歌講跡碑

山崎宗鑑像   山崎宗鑑は俗名を志那弥三郎範重といい、近江源氏佐々木義清の末裔で九代将軍義尚に仕える武士でしたが、その陣没(1489)により剃髪しこの大山崎にきたのが30歳のころでした。それ以後、山崎油神人の繁栄を背景に連歌講の中心人物になり、この地で人生の大半を過ごすことになりました。
 少年のころ、一休和尚の知遇を得て、その機知と反骨精神を学んだことの影響からか、後にはむしろ俗語を用い、諧謔を表現する俳諧連歌への傾斜を強め、晩年には俳諧選集に力を注ぎ『犬筑波集』を編纂したことから俳諧独立の基礎を築いた人物と評価されています。書家としても一家を成し、いわゆる宗鑑流と称せられる奔放な書体をよくし、生計はむしろこの書の
揮毫料によって支えられたといいます。讃岐・観音寺の一夜庵にて、天文九年(1540)に生涯を終えたといわれています。

山崎宗鑑句碑 天王山登り口にある句碑の〈うずききてねぶとに鳴や郭公〉という句は、「卯月が来て声太く鳴いているのはホトトギスですよ」という表の意味の他に「根太(=腫瘍)が疼いてきて泣いているホトトギスさんよ」という裏の意味をこめた俳諧で、親しかった伊勢の神官の荒木田守武が根太にかかっていたのを揶揄したものと言われています。
 この句碑の側の解説立札にはもう一つ宗鑑の句〈風寒し破れ障子の神無月〉が載っていますが、このもとの軸(自画像賛懐紙の複製)が歴史資料館に展示されています。この句も、破れ障子=紙がない=神無しと掛けた言葉遊びです。 

所在地 大山崎町大山崎上ノ田1 JR山崎駅東の宝寺踏切北側